2008,江端さんの忘備録

中学の時だったと思います。

かなり年配の教師が、

「戦争(太平洋戦争のこと)の頃の時代には、食べ物がなくて、とても辛い時代であった。君達なら、到底耐えられかっただろう」

と言っているのを聞いて、

中学生ながらに、私は『阿呆か、こいつは』と思ったことを覚えています。

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私はコンテクストのことを言っているのではありません。

「食べ物がない辛さ」というのは、想像を絶する地獄であることを、私は、知識として知っているに過ぎません。

(それに近い状況を、海外の一人旅の時にちょっとばかり体験しただけです)

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問題は、その後の文言にあります。

「君達なら、到底耐えられかっただろう」

この文言には2つ程、私を怒らせる事項を含んでいます。

(1)日本の国民全員がその状況にあって、それを「耐える」という以外の選択肢しかない時に、どんな人間であれ、何ができるかといえば、2つしかないはずです。

「耐える」か「自殺するか」です。

自殺しなければ、耐えるしかない状況下で、その教師が「耐えて」きたことは、何か私達に対して自慢することなのでしょうか。

(2)仮に、私たちが同じような悲惨な戦後食料時代に置かれたと仮定した場合、私たちが「耐える」か「自殺するか」以外の別の選択を取りえるか、ということです。

その教師と同じように、「耐える」しかないでしょう。

その教師は、何か立派なことをした訳ではありません。

「耐える」という誰もがしなければならなかったことを、誰もと同じようにしただけに過ぎないのです。

もっとも、その状況を大変気の毒と思いますし、私がそのような地獄がない世の中で生きられることは心から幸せだと思いますが、それは議論が異なります。

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私は、(あまり長い期間ではなかったけど)、学費を稼ぐために働きながら勉強していた時代がありました。

その話をすると、「立派だ」などと言われることがあるのですが、私は酷い違和感を感じるのです。

その時私には、「働いて勉強を続けるか」「学校を止めて働くか」の選択肢しかありませんでした。

勉強を続けたかったので働きながら勉強しました。それは、それ以外の選択肢がなく、その選択を私が選んだからです。

少くとも、こういうことで「立派だ」という言葉を使うべきではないと思います。

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限定された選択肢の中から、普通に選び取ったにすぎない事項は、特に賞賛され得る行為ではありません。

その教師が語ったことは、(我々が同じ愚を犯さない為にも)後世に伝えるべき必要な情報として、絶対的に伝えていって欲しいと切望するものですが、これらの有益な情報が、どうしてこういう形で発露されてしまうのかは、本当に不思議としか言いようがありません。

こういうことを、情報伝達以外の目的で、自慢するかのようにしゃべる奴は、阿呆だ、と私は思います。

断言します。

2008,江端さんの忘備録

嫌われ者の嫌われる理由は色々あると思いますが、その最たるものが、「どうせ、俺/私は嫌われているから」という開き直りにあると思うことがあります。

嫌われている人は、「どうせ、俺/私は嫌われているから」と自分で認識、または他言することで、免責されるとでも思っているかのように振る舞うことが多いようです。

なにを勘違いしているのでしょうか。

嫌われている人自身が自分で何を考えようが勝手ですが、私はその程度のことで、『私を不快にさせているという事実』を、免責させるつもりはありません。

臭い匂いがする生ゴミであれば、それをできる限り密封したビニール袋に入れる努力をするのは、当然でしょう。 「俺は生ゴミだから」といえば、生ゴミを放置しても良いという理屈が成立する筈はありません。

生ゴミとして生きることを押し通すのであれば、(1)人のまったくいない場所へ静かに立ち去るか、(2)匂いがしないようの最大限の努力をする、という2つの選択肢しかないはずです。

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私は、立ち去ることを選択しませんでした。

ですから、匂いを発しないように、二重三重のビニールコーティングをする努力をして生きているのです。

下らない理屈で甘えないようにしましょう。

2007,江端さんの忘備録

大学の頃、私の友人はZ80や他のICを組み合わせて、自作でパソコンを作っていました。

今の「自作PC」と一緒にしないようにして下さい。彼は、コンピュータの論理回路を「自作」していたのです。

# マザーボードを自作するようなもの

そんな凄い彼に色々教えて貰いながら、私も簡単なアナログ回路やデジタル回路を作って、遊べるようになりました。

遠隔の起爆装置を使って、リモートから爆竹を鳴らして遊んでいたら、成田闘争の先輩から声をかけられて、慌てて回路図を廃棄したことも思い出の一つです。

# もう、このネタ、いいかげん止めよう。

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ここ2ヶ月くらい、電子回路未体験の若い外注さんにお願いして、簡易PLCの通信モジュールを作って貰っていました。

彼の困っている内容に対して、色々指示できることを知って、自分自身で驚いています(プルアップとか、トランジスタを使ったスイッチングとか、インピーダンス整合程度の、簡単な話ですが)。

『この歳になっても、意外に覚えているもんだなーー』と。

というか、20年も前の知識が、今も通用するという世界がある、ということでしょうか。技術の世界も『基本は、それほど変わらない』と言えるような気がします。

2007,江端さんの忘備録

阪神大震災の3週間後に、私は被災地ボランティアにでかけて、 その被災地の詳細なレポートを社内のネットに流しました。

この文章は多くの人に読まれたようなのですが、その感想は、概ね、被災の実体を知ったことの衝撃、または、私の行為の賞賛等のものでした。

その中で、一人だけ「江端さんって、本当に偽善者ですね」と、笑顔で応えてくれた女性がいました。

『この人、本当に私のことをよく分っているんだなあ』と、嬉しくなったことを覚えています。

"偽善の善も、善は善" --- と言う共通の認識があったからだと思います。

しかし、「その女性が、今の嫁さんです」という話にはならないのですが。

2007,江端さんの忘備録

小松左京先生の数多い名著の中でも、群を抜いて優れている著作「さよならジュピター」を読まないまま、研究所に入所してきた若者がいることを知って、結構ショックを受けています。

すでに入手困難本になっているのかもしれませんし、若い世代には、その世代の代表的なSF作品があるだろうから、上記の評価は的を得ていないと思います。

先日古本屋で文庫本を入手して、十何年ぶりに読んだのですが、まったく時代を感じさせない、本当に見事な作品。

舞台が2200年でありながら、「加速度消滅装置」やら「ワープ」やら「タイムリープ」みたな、エネルギー保存法則を無視するようなデタラメな装置を持ち込まず、この21世紀でも十分通用する、無理のない技術の設定が大好きです。

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余計なお世話かもしれませんが、エンジニアの独身男性の諸君。

君と結婚を渋っている女性に、この本を勧めてみてはどうでしょうか。

『その主人公の「本田英二」は、要するに俺のことだ!』と彼女に言い切っても良いと思うのです(少なくとも私は許します)。

技術を愛する我々は、皆、宇宙の彼方のフロンティアを目指すエンジニアだと思うのです。

ちょっと我々は早く生まれてきてしまいました。

せめて、私達は、次の世代のエンジニアを、地球という楔から解き離すようにがんばりましょう。

エンジニアに「市場調査」だの「長期技術展望」だのという、下らない検討をさせる世界から脱却させる為にも。

2007,江端さんの忘備録

某、と言っておきましょうか、ステージトーク集だけでCDが販売される某シンガーソングライターの歌手の方の話です。

私はこの人の歌も語りも大好きなのですが、この人の日本への偏狭的な語りにはうんざりしています(時代遅れの性差主義も結構げんなりしています)。

『こんなにも四季が豊かで、こんなにも美しい国が、世界の他にあるでしょうか』

あるよ。

腐る程あるよ。

いい歳こいて、まだそんな阿呆なことを言っとるのか、お前は。

と、まあ、この件(くだり)を聴く度に呟いてしまうのです。

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確かに日本も美しい国です。

長期間滞在する機会を得た北米コロラドには、ここに一人取り残されたら絶対に死ぬ、という人間の存在を全否定するかのような、絶対的な冷厳な自然の美しさがありました。

一年を過す機会は得れませんでしたが、中国大陸の奥地の朝焼け、インディス川の夕日、ネパールのチベット山脈を望む高地、フロリダのやさしく流れる風、冬のパリのモノトーン色の午後。

どこもここも、大好きな所でした。

私は、世界のどこにいたって、言葉が通じようが通じまいが、その土地を好きになり、そして十分な時間さえあれば、そこが一番良い場所だな、と思うことができると思います。

そもそも、その土地を慈しみ、大切に思う気持は、その土地の上に立ち生きている、生きとし生きる物(×者)すべての生命の属性だと思うのです。

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だから、私は「愛国心」を「育てる」という意味がさっぱり分からんのです。

あれは「育てる」のではなく、ほっといても「育つ」ものです。

上記の某歌手のように、遍く日本人の全てが日本こそが最高だと思う人になるように「育てる」というなら、これはあり得ると思います。

が、そういうのは「育てる」とは言いません。

こういうことを、普通「洗脳」と呼びます。

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(その1)

私が高校生の頃だったと思います。

ロシア(当時のソビエト連邦共和国)の領域を通過した、韓国の民間航空機がソビエト軍の戦闘機に撃墜されるという事件がありました。

後に「大韓航空機撃墜事件」と呼ばれる事件です。

今になってみると、冷戦はその後半部を終了し、数年後に終結を迎えることになっていたのですが、当時の誰もがそのようなことを予想すべくもなく、世界はこの惨事に声を失なったものです。

その後、この事件は、各国の主張が入り乱れて、何が何だかか分からない状況を呈していました。

先ずは、ソビエト側による否定、事実の隠蔽に始まり、日本の自衛隊による通信記録の傍受の公開、米国による追訴、そして、最後にアンドレイ・グロムイコ外務大臣の「大韓航空機は民間機を装ったスパイであった」という声明の発表に至ります。

当時、私は、民間人(296人)を満載した戦闘能力を全く有しない民間機を、正規軍の戦闘機が撃墜したという事実に対するショックに加え、人類として到底認容しえないこのような非道な暴力が、軍事的な観点からは『十分に認容され得る』という事実に、衝撃を受けたものです。

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大学に入学した後、私はいわゆる学寮達と共に議論を行うことを常とする「政治に極めて意識の高い自治寮」に入寮し、色々なことで(愚にもつかぬことも多かったですが)議論を闘わせたりしていました。

大学2年の夏休みに実家に帰省した私が、父の運転する助手席に座っていた時だったと思います。

どういう経緯で父とこの事件(大韓航空機撃墜事件)について話を始めたか覚えていませんが、その頃、少しだけ聞き齧った地政学の本の話を引用して、『この事件のソビエト側の対応を、認容できる部分もある』という論を展開していました。

私は、---- もし、『大韓航空機 = スパイ機』であったとすれば、または、その恐れがあったとすれば、例え、それが航空機の整備不良による事故であったとしても、ソビエトが国防の観点から、そのスパイ機の可能性がある旅客機を撃墜することは、ある意味仕方がなかったのでは------ と、自分の考えを言いました。

父は、私とそのような話をする時には、いつも嬉しそうに話の間の手を入れ、私の話がどんなに稚拙でも、その話の腰を折ることなく、最後まで聞き入れてくれたものでした。

その時の父は、いつもの父とは違う様子で、ハンドルを握りながら、フロントガラスを見つめながら言いました。

『智一。そうではない』

私は、少し驚いて父の横顔を見ました。

『航空機が民間機である以上、如何なる理由があっても、民間機を撃墜するということは許されない』

私は意外な感じを受けながらも、父に反論しました。

『もし、韓国機がソビエトの領空をスパイ目的で侵犯しており、国益を脅かすことが明らかであったとしても?』

父は、息子にキッパリと言いました。

『仮に、その航空機の機長を含め、また仮に乗客のほとんどがスパイであって、悪意の目的をもって、領空侵犯をしたとしてもだ。

そこにたった一人の無関係の乗客が乗っているのであれば、どのような者であれ、その命を奪う行為を正当化することはできない』

唖然としている息子に、父は静かに続けました。

『それが「人間」と言うもの、「命」と言うものではないか?」

それは、恐らく、沢山の命が奪われる現実を間の当りにしてきた者だけが持ち得る、魂から絞り出された言葉だったのだと思います。

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私は、サイドウインドウの方を向いて、そのまま黙り込みました。

胸の中に広がる熱いものに突かれて潤んできた眼を、父に見られたくなったからです。

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(その2)

私は2000年から2年間、仕事で米国に在住する機会を得ました。

この時、私が幸運だったことは、日本からチームとして参加することになり、チームのメンバの内、所帯を有するものは、家族とともに米国に滞在することになったこと。

そして、その家族の方々がいずれも気持よ良い方ばかりで、多くの交友を深める機会を得ることができたことでした。

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ある休日のこと、私は自分の担当していたプログラムの数行を修正する為に、休日に家族をつれて職場に出ました。そこで、私の先輩とその奥様に出会いました。

奥様は、当時、皇太子のご令嬢の誕生を、インターネットで確認する為に、先輩とともに職場に来られたとのこと。 (コロラドの少くともフォートコリンズという地域には、日本語向けのテレビ放送はなかった)

その時、私は『はあ、そうですか』としか応えられませんでした。

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私は、一度、無礼を承知で、奥様にお伺いしたことがあります。

『芸能人の誰かが結婚したとか離婚したとか、そういう週刊誌に掲載されるような内容は、興味の対象になり得るものでしょうか』と。

これに対して、奥様は、「トム(Tom)」(赴任先では、全員がこのような愛称で呼び会うことが、赴任先の会社のルールとして統一されていた)と、私をお呼びになられた後、次のように続けられました。

『あなたは、自分の大切な家族や友人が、幸せになったり不幸になったりした時に、それを「興味の外」ととして置いとけるものでしょうか?』

『いえ、そのようなことはないと思います。家族や友人を思い、同じように、喜び、または悲しむと思います。また、そのような人間で在りたいと思います』

『私も同じです。私も友人達の不幸に悲しみ、幸福に喜んでいるだけです』

しかし・・・と言いかけた私を制して、奥様は続けられました。

『違いがあるとすれば、私はその友人を良く知っているのですが、逆に、その友人は私のことを全然知らない、という、ただそれだけのことなのです』

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私は、このパラダイムを提示された時の衝撃を忘れられません。

冗談でも、揶揄でもなく------、私は今でも、この奥様のことを尊敬できる人々のお一方であり、心から敬愛すべき対象であると、固く信じております。

(本文章は、全文を掲載し内容を一切変更せず著者を明記する限りにおいて、 転載して頂いて構いません。)

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江端さんのひとりごと
「江端の『ハレ』の定義」
   2004年11月26日
<後輩夫婦の旦那からのメール>
Aです。
台風の上陸に合わせるかのように,妻が、男児を出産しました。
予定日を大幅に過ぎており、不安だったのですが、母子ともに、健康状態は良好です。
メールでの簡略式で申し訳ありませんが、とりいそぎご報告まで。
</後輩夫婦の旦那からのメール>
<江端のリプライ>
江端です。
おめでとうございます。
最近、「ハレ」が少ないところに、このようなTypicalな「ハレ」をご報告を頂き、ありがとうございます。
# ちなみに、江端の「ハレ」の定義
  • 結婚(できちゃった結婚なら、ハレ度アップ)
  • 彼女、彼氏の出現
  • 出産
  • 家、マンション、車を除く、意外な高額商品の購入(個人による電子顕微鏡、無人島の購入等)
  • 学位、昇進、特許、資格取得を除く、意外な賞の受賞等(人間国宝指定、文化勲章授与、オリンピックメダル取得等)
  • その他、江端が「ハレ」と認めるもの
ところで、誕生したお子さんだけでなく、奥様が生み出した特許発明「特開2003-XXXXXXX」の活用検討で、頭を抱えております。
生み出したものは、子供であれ発明であれ、慈しんで「両親」協力して育てましょう。
自分の子供に、「出願審査請求→否」と返事してはなりません。
</江端のリプライ>
(本文章は、全文を掲載し内容を一切変更せず著者を明記する限りにおいて、 転載して頂いて構いません)

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社内報リレー随筆

「人の言うことを聞かない能力」

2004/01/10
[その1]

インターネットが、電話線で細々と繋がっていた頃、私は未来のインターネットを夢想して、張り切って特許明細書を書いてましたが、私より数段偉くて頭の良い人から『意味がない』と論理的に説得されてその執筆を止めてしまったことがあります。

そして今、その発明を他社が実施しているのを悔しい思いで見ながらも、今なお、その論理を論破できない自分がいます。

私が心の底から悔しいと思うことは、世間がなんと言おうが、論理的に破綻していようが、私が信じるものは絶対である、という狂信的な思い込みを持ち得なかった自分に対してです。

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[その2]

数年前に私が結婚を決意した時、私の回りは一斉に反対の声を上げました。

私に結婚を思い留まらせる為に合宿まで企画されました(本当)。

『写真のこの娘は堅気の娘ではないか。暗黒サイドのお前とは所詮住む世界が違う!』(暗黒サイドって何?)。

実際、その当時彼女自身、本当に私と結婚したかったかどうかも疑わしく(と言うと嫁さんは『何を言うの!たとえ、あなたが売れない場末の芸人であっても、私は・・』と言い返すのですが)、私は彼女の意見すら十分に聞かずに結婚に踏み切りました。

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[結言]

私達は自立した社会人として、人の話をきちんと聞かねばなりません。

しかし時として「人の話を聞かない能力」を問われるものが世の中に2つだけあります。

それが「特許」と「愛」です。

お忘れなきよう。

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江端さんのひとりごと

「英会話スクール出逢い機関論」

2002年12月24日

特許明細書が書き上がりません。

最近、クリスマスの思い出と言うと、特許を執筆していた記憶以外にありません。

時期的にも、下期の特許提出の時期にぶつかることもあって、私にとって、「クリパ」と言われれば、クリスマスパーティなんぞではなく、クリスマスパテント(特許)です。

本当は、このような愚にもつかない駄文を書いている間に、明細書の第二の実施例を執筆しなければいけないのですが、システム構成図を書き直すのが面倒なのです。

なんとか手を抜けないかと、現実逃避の考案をしている時、私の駄文執筆能力は、最高潮に達するようです。

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嫁さんの気質や思想やポリシーに影響されるところ大なのですが、私は、結婚してから色々なことから解放され自由になり、人生が楽に、そして楽しくなりました。

また、嫁さんとは関係なく、結婚というシステムの観点からだけでも、いくつかのことから自由になったことがあります。

その中の一つに、「クリスマス脅迫症候群」とも言うべきものがあります。

この時期、駅前、商店街、デパート、繁華街、どこにいても出現する緑と赤の装飾、巨大なクリスマスツリーの電飾イルミネーション、そして、どこまでもしつこく追いかけてくるクリスマスソング。

会社の帰りに、夕食のコロッケを買っているところに、ユーミンや山下達郎なんぞ、出現させるんじゃない(ちと古いが)。

若い頃、私は、

一人で街を歩いたら、いかんのか!

と怒鳴りたくなる衝動にかられていました。

そのようなものから逃げる為に、イブの夜に嫁さんに担保をお願いしていた若い頃の自分は、愚かだったと思います。

だが、この青春の愚かなプロセスなくして、今の家庭や家族がないのも、また真実です。

その時、若さ故の愚かさを、シニカルに笑っていただけなら、今、食卓を囲んで家族で笑っていることはできなかったでしょう。

逆説的な結論ではありますが、「クリスマス脅迫症候群」によって「クリスマス脅迫症候群」から離脱する、というこの一連の理論は、物質が他の物質に変化するプロセスで、一時的に高エネルギー状態に至らなければならないという「励起状態」を思い起こさせます。

いずれにしても、今の私には、街中のクリスマスソングも、電車の中で若い恋人達がいちゃつく様も(そして愚にもつかない彼等の会話も)、まるで、梅が咲きほこる雅な茶会の席で、俳句をしたためながら、ホトトギスの声を遠くに聞くくらい、気になりません。

ともあれ、こういう下らない脅迫観念から離脱できただけでも、結婚は私にとって意義があったと断言できます。

閑話休題。

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実際のところ、一体どれ程の効果があるのだろうか良くわからない「英会話スクール」ですが、この不景気日本にあって、しぶとく生き残っているようです。

先日、先輩と話していた時に、「英会話スクール」の目的は、勿論英会話の向上にあることの他、「異性と出逢う場」としての役割もあるそうです。

なるほど。

そういうことなら、あのふざけた高価な授業料も、投資としてはむしろ安い。

個人を主体とする現代の社会構造上、異性と出逢うチャンスがないと言うのは、至極当然のことではあるのですが、出逢いを求めている当の本人達にとっては、深刻な問題です。

近い未来、自力で彼氏や彼女を見つけてきた者は、会社や地元の自治会から表彰されるような未来がくる、と私は真面目に考えております。

実際、政府が国営のお見合い期間の設立に動いています(2002年11月14日の朝日新聞より)

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これは本当の話ですが、私は10年も前に、日立のスーパーコンピュータのアプリケーションとして「お見合いシステム」を提言していました。

スーパーコンピュータの性能と言うと、円周率の計算くらいしかやることがないように思われていますが、これからのスーパーコンピュータはスペックは、MIPSやディスクアクセス速度、トランザクション処理数などではありません。

目標は、単位時間あたりに、どれだけの大量のカップルを生成させることができるか、そして、そのカップルをどれだけの時間維持させえるか、さらには、定着率(結婚率)などが競われるようになる、と予言していました。

MTTR(Mean Time To Repair 平均修復時間)は、システムの平均復旧時間から、カップルの平均復旧時間へと解釈が変更され、MTBF(Mean Time BetweenFailure 平均故障間隔)は、言うまでもなく、カップルの平均交際停止間隔と解釈される訳です。

こんな風に考えていくと、「システム」と「恋愛」は恐しく良く似ていることに気がつきます。

セキュリティの観点から言えば、機密性、可用性、抑制機能、予防機能、回復機能等、メンテナンスの観点からは、初期不良、経年劣化、リプレース・・・

まあ、この辺で止めておきましょう。

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結婚の問題とは関係なく、異性と付き合うことは、それ自体が人生を豊かにするし、そもそも楽しいものです。

勿論、苦しさや面倒も半端じゃありませんが。

この機会を、英会話スクールが提供しているのだとすれば、大変コストパフォーマンスな「場の提供」と言えるでしょうし、次世代の新しいコミュニティ創成の場として大変有望なものであると、私は考えました。

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「そうかな?」

私が得意げに、「英会話スクール出逢い機関論」を唱えていると、嫁さんが異議をはさんできました。

私 :「どうして? 出会い系のメールやWebなどに比べて、身元や面が割れる分、健全で安全で安心だし、勉強で集うと言う点も、さらに高品質のフィルターを通っているとも解釈できるぞ」

嫁さん:「『出逢う』為には、男性と女性が、少なくとも同じクラスにいなければいけないよね」

私 :「そりゃ、まあね」

嫁さん:「で、まあ当然、英会話を始める人なら、初級コースから入会するよね」

私 :「そうだろうね」

嫁さん:「自然に無理なく親しくなるためには、それなりに時間もかかるよね」

私 :「あからさまに、『異性を探しています』てな感じの奴なんて、いやだろうからな」

嫁さん:「英会話クラスの初級コースなんぞに、うだうだといつまでも居残っている男ってことは、『私には将来性がありませんよ』と宣言しているようなものじゃない? 私なら、私と同じクラスにいるような男は嫌だな」

私 :「・・・あっ」

盲点でした。

確かに、そんな将来性の見えない異性を探しすために、金を出しているとしたら、投資以前の問題です。

金をドブに捨てているようなものです。

嫁さんの提示したアンチテーゼは、英会話スクール以外にも、テニススクール、その他のスクール全部に適用が可能のようです。

いつまでたっても、初級コースから抜けられない野郎と付き会いたい女性は少ないだろうからです。

むしろ、検討除外の明確な指針となってしまう恐れもあります。

まあ、別の異性へのアクセスのポインタくらいにはなるのかもしれませんが。

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「出逢い」が難しい時代になりました。

「出逢い」を構築するために、自分ではない、不本意な自分を演出する必要性に苦しんでいる人も多いと思います。

口ばかりが上手くて、綺麗に装うのが上手い奴だけが、出逢いの門に立てるのだろうかと問われれば、私は自信を持って答えることができます。

その通りです。

ですから、「一緒になって貰うために、地に這いつくばい、泥をすすり、自尊心を投げうって、彼女の足を舐めるような屈辱を経て、結婚を承諾して貰った」(http://www.kobore.net/mail8.txtより抜粋)と言う、私の尊敬する人の言葉が、私の胸を熱く打つのです。

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クリスマスイブの今日、私より皆さんに、新約聖書の「マタイによる福音書」7章13節を贈ります。

「狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きくその道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。命にいたる門は狭くその道は細い。そして、それを見いだす者が少ない」

最後に、江端による福音書、第3節A項の第5号にて、今日はお別れしたいと思います。

皆さん、よいクリスマスを。

「狭い門から入る必要なんぞないし、できれば避けたいのは山々だが、本当の自分を好きになってくれる人と出逢う為の門は狭い。天国の門なんぞお話にならんくらい狭い。ナノテクノロジーですら解決できないほど狭い。とにかくうんざりするほど狭い。それを見いだす者は、かなり運が良い」

(本文章は、全文を掲載し、内容を一切変更せず、著者を明記する限りにおいて、自由に転載して頂いて構いません。)